NGOカトマンドゥ日記

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疑惑

2015、2、28

スマンは今でこそ職も得た。住むにも植林センターの部屋がある。が、もともと実家がない。いつも、フィクリ村に住む叔父を頼っていた。すぐにどこかへ行ってしまう父親より、よほど確かな存在だったからだろう。
フィクリは誰もが貧しく、僅かな痩せた斜面の畑にしがみついている村だ。誰が逃げ出せようか。逃げれば、土地は毛派に取り上げられる。だから、村全部が毛派になった。当時、そんな例は珍しくない。スマンの叔父は彼を誘い、毛派の戦闘訓練を受けさせたのだろう。
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マネ村のEグループは、ほとんどが毛派である。
そんなことに驚いていては、植林は出来ない。
だまし、だまされても、植林は大事だよ、と言い続けている。
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by ngokathmandu | 2015-02-28 19:42 | ネパール植林地

疑惑

2015、2、27

スマンはなぜ毛派に入ったのだろう。
2000年から02年までの激しい戦闘が続いた時期を経験すると、紛争の構図のようなものが、私にもぼんやり見えてきた。政府軍が来ない山奥の低いカーストの村にとって、毛派ゲリラと共存しない限り、だれも生きて行けない。村のゲリラは、普段は農夫である。訓練や実戦経験があるから、指令が来れば、隠していた武器を手に戦闘へ参加する。
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子供たちはいつも人懐っこい。
この子らのためにも、再び戦闘が再開されないことを祈る。
実は今は休戦状態なのだ。
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by ngokathmandu | 2015-02-27 11:16

疑惑

2015、2、25

スマンは、いつまでもペンキの缶を運んでいたわけではない。正式に植林センターの職員に採用された。最初の給料を貰ったスマンは、安いインド製の時計を七つも買って笑われた。金を使った経験などなかったのだ。
そのころ、毛派は、制憲議会選挙など、40項目の要求を政府に突き付けていた。だが、無視された。それが人民戦争を始める名目になった。1996年2月のことだ。
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Eグループの上下を分ける道路を、カミ族の子供たちが学校から帰って行く。
植林地の大きさにたじろぐ。
だが、ここが森になれば、子供たちへの貢献は計り知れない。
大きな水源が出来るからだ。
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by ngokathmandu | 2015-02-26 11:03 | ネパール植林地

疑惑

2015、2、25

私たちは無論その文化には逆らわない。ただ職場では、みな平等にした。最高のカーストであるバフン族の教官補ランバブも、ローカーストのタマン族の助手スマンも、仕事は同じで、同じものを食べる。食べたいだけ食べて良い。下のカーストがお代わりしても、一向に構わない。座る場所も自由である。カーストの低い者でも、部屋の外で食べる必要はない。当然、給与にも差をなくした。スマンはたぶん、その辺が気に入ったのだ。
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Eグループの下部の斜面。
ようやく、ネパールはんの木やネパール松が立ち上がってきた。
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by ngokathmandu | 2015-02-25 13:36 | ネパール植林地

疑惑

2015、2、24

スマンは面倒見の良いロクの家に泊まったり、植林センターの留守番役をしたりした。もうひとり、同じくらいの歳のボスラムという少年がいた。ボスラムはバフン族である。スマンはボスラムほどは気が利かない。そのかわり、やれと言われたことは、いつまでも続けていた。ボスラム少年が、容量よく消えてしまうのとは大違いである。スマンは私たちのどこが気に入ったのだろうか。
ネパールはインドほどではないが、徹底したカーストの世界である。王様や大臣は無論、役所、軍、警察のトップも、インド系のチェットリ(クシャトリア)か、バフン(ブラーマン)族だった。
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いつも出てくるこの写真。
インド菩提樹の下に、モクレン科のチャンプを植えた少年がいた。
なんで光が届かないような場所に、選んで植えるのか?
皆、笑ったが、いまになってみれば、チャンプは菩提樹をはるかに追い越している。
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by ngokathmandu | 2015-02-24 16:45 | ネパール植林地

疑惑

2015、2、23

多くの貧しい農民の子がそうであるように、スマンも学校へやってもらえず、字が読めない。苗を植えれば奨学金が出て学校へ行けるはずだが、スマンには自分の土地と言うものがなかった。周囲がハイカーストのトゥプチェ地区では、勝手に植えることが出来なかったのだろう。
スマンの父ラトナは、かなり飲むほうである。タマン族は飲酒に抵抗がない。村の共同の仕事として濁酒作りがあるくらいだ。上流階級のバフン族やチェトリ族は飲まない。
ラトナは酒を飲んでは仕事を放り出し、それまで我慢強かったロクを失望させた。居づらくなり、女の家に住むことになった。さすがに、子連れで行くことは出来なかったのだろう。スマンは、はぐれた子山羊のように取り残された。
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緑化し始めたEグループの植林地から、学校帰りのカミ族の子供たちが、家路をたどっていた。
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by ngokathmandu | 2015-02-23 09:30 | ネパール植林地

疑惑

2015、2、22

ラトナ(スマンの父親)は山を下り、ロクの田畑の耕作を手伝って暮らしていた。植林が始まると、そっちの仕事もやるようになった。苗を植える穴を掘り、水をやり、苗を作るための種取りもする。スマンは父を手伝わなくてはならない。日本人が来ると、苗にマーキングをするペンキの缶を持った。日本人は、
「スマン、ペンキの缶を持ってもらって、すまん、すまん」
などと、下らぬシャレを言う。だから名前はすぐ憶えられた。
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最後まで成功しなかったマネ村Eグループの斜面に、成功の兆しが出て来た。
25年目にして、初めて、200メートルから1650メートルまで、森が繋がった。
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by ngokathmandu | 2015-02-22 21:11 | ネパール植林地

疑惑

2015、2、21

スマンはなぜ毛派ゲリラになったのだろう。
スマンはタマン族だ。最初に私が会ったころ、6歳か8歳くらいだったろう。戸籍がなかったころだから、正確な年齢はわからない。絶えず鼻を垂らしたり、すすったりしながら、父親のラトナの後を付いて歩いた。ふたりが私たちに関わるのは、植林を始めた1990年である。
彼らが住んでいたところは、ロク(ドゥルガの実兄)の家があるトゥプチェより1000メートルも上の山間部だった。本当は自分の家など無く、親戚のところに寄宿して働いていたらしい。その辺はタマン族の村が多い。タマン族はシェルパ族と同じように、大昔、ヒマラヤを越えて来たチベット・ビルマ系の民族である。
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マネ村の故アイマンシンさんの家。
妻のミンクマリさんには、いつもお世話になっている。
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by ngokathmandu | 2015-02-21 18:15 | ネパール植林地

疑惑

2015、2、20

私は貧しい家庭の子供に5本の苗を渡し、1年間枯れなければ、1本に20ルピーの奨学金を出した。苗の種類はグリーンカードに記録され、5年間チェックされる。村の大勢の子供たちは、半年以上続く乾季に下の川から水を運び、1っ本ずつかけた。大人も手伝った。苗をチェックするには人手が要る。山岳協会の仲間たちが訪れた。自らを「山家」と呼んだ。
今度は枯れなかった。子供たちは苗を大きく育てて、あこがれの学校へ通った。
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峠の三本松。
何か秘密の話があるとには、この下ですれば誰にも聴かれない。
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マネ村と、タンダパニ村の間の長い道。
この、上下にも植えた。
まだ一部しか成功していない。
常時、落石注意。
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by ngokathmandu | 2015-02-20 15:59 | ネパール植林地

疑惑

2015、2、19

赤土がどこまでも続く木のない山肌に、ただ一対のインド菩提樹が、そこだけ葉を濃く茂らせている。他に緑が少しでもあるところと言えば、200メートルほど上の、山羊のための草刈り場だけである。そこも乾季になれば、枯れ草に山羊の足跡が網目模様に付いているのを除くと、他の場所と区別がつかない。トゥプチェの村びとによる植林は、1990年5月、タクリガウン(タクリ村)と呼ぶその草地から始まった。
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カルキ村まで下って来ると、遠くカウレ村の植林ちの大斜面が見える。
あーあー、まだまだだ・・。
と、いつも思う。
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by ngokathmandu | 2015-02-19 18:23 | ネパール植林地



小中学生の牛乳パック回収によるヒマラヤの森作り
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